うにょのブログ

食う寝る動く

痛い目をみて学んだこと

 以前、人生で痛い目を見て、そこから学びを得たと言った。その学びとは、「手段と目的を混同しない」ということだ。もう、これに尽きる。自分が手段に固執して辛くなり、「これじゃあ本末転倒だ」と気づいたとき、ふっと心が軽くなる。たとえば、最近コレばっかりで悪いけど、社会運動を例にあげると、社会運動って最終的に自分たちが幸せになるためにやるのに、それで逆に辛くなってたら、本末転倒だ、と思う。まあ、何でもそうだね。みんな、幸せのために動いている。いや、むしろ幸せのためにしか動けない。それをすることが、本人にとって幸せだと本人が信じ込んでるからこそ、やるのだ。でも、それで辛くなってたら、その手段、手放すっていう選択肢もあるよ。手放さないにしても、幸せのためにやっているという目的を忘れずに「楽しみながら」やるのだ。

 

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 アニメ『ボルト』見てて、ミツキが、目的を見失わないのが上手だなあと思った。ワザと中忍試験で仙術を使わずに負けを認めたり、そうかと思えば、ボルトが死にそうになったときには仙術を使って助けようとする。その柔軟性、スゴいなあと思った。

 

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 手段と目的を混同しないっていうのは、執着を手放すってことかもしれないし、柔軟性を高めるってことかもしれない。あと、以前、アイデンティティの確立について記事を書いたけど、「軸を持つ」っていうのは、確固たる手段を持つということではなくて、確固たる目的を持つってことなんじゃないかなあ? と思った。目的は目に見えないけど、手段は目に見えるから、目に見えるものを確固たるものにした方がシッカリしてる感じになるけれど、本当は、目的をブレずに持って、手段は場合に応じてブレブレなのが、軸を持つってことなんじゃないかなあ?

 

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 手段と目的を混同しないために、有効性という基準が役立つと思った。僕はあまり詳しくないけど、有効性という基準はACTで使われる。つまり、それが正しいか間違っているかではなく、有効かどうかという基準で判断するのだ。たとえばさ、簡単にいうと、「自分はもうダメだ~~」って自己嫌悪している人いたとする。ここで、認知療法とかだと「自分はダメ」っていう認知を「自分はよくやってる」みたいに変えて、ネガティブ気分を脱していくんだけど、そもそも、「自分はダメ」っていう考えが事実として正しいか間違っているかは置いておいて、その考えは自分にとって役立っているか役立っていないかで考えるの。そしたら、役立ってないのは明白だよね。事実として自分はダメかダメじゃないかなんてのは、関係なくて、たとえ事実として自分がダメでも、「自分はダメ」って考えるのはホント役立ってないから、その考えはほっときましょって話です。

 これと同じで、今やってることは、ホントの目的のために役立ってる?みたいな感じね。

エモーショナル・コレクトネス

 僕が最近感じていたものはコレや・・・!

サリー・コーン: 「エモーショナル・コレクトネス(正しい感情表現)」を実践しよう | TED Talk

 

 最近まで僕もノンケに対して敵対的になってしまって、たぶん相手にとってかなり嫌なヤツだったんだろうなあということを思っていたんですヨネ。古典的なゲイアイデンティティ発達モデルでは、ホモとノンケを二分的に考え、ノンケ世界に対して憤慨するというステージがありますけど、まさにそんな感じ。でも、怒って批判したところで相手は変わることはほとんどなかったです。あったとしても力尽く感がある。

 やっぱり、どう言うかって大切ですよなあ。機能的アサーションのように、コレ!っていう絶対的な表現はないんですよな。ホント、独りよがりの単なる自己主張だけでは嫌がられるだけで、受け手を意識した機能的な自己主張がよいのですよなあ。自戒の念、込めまくりです。

機能的アサーション - Wikipedia

 

 アト、もう1つ思ったんですが、社会的な運動をするなら、構造上、自分が苦しくなっちゃう可能性が高いので、「楽しみながら」やりたいですな。その観点から、やる気あり美さんをみると、体現してるなあって感じがしますな。

読書と勉強

 読書には、二種類ある。広げる読書と深める読書である。前者を娯楽的読書、後者を勉強的読書とする。すなわち、前者は一般的にいわれる読書であり、後者は一般的にいわれる勉強である。さらに換言すると、前者は自分の知的好奇心に従って守備範囲を広める行為であり、後者は自分のスキルを高めるために行う行為である。これを分けて考えないと大変である。どう大変かというのは、みなさんの想像にお任せする。

 私は、勉強的読書を主とし、娯楽的読書を従とすべきだと考える。なぜなら、勉強的読書はスキルアップに直結し、その人にアイデンティティになりうるからであり、また、娯楽的読書を主とした場合、どこまでも広がってしまうからである。

 私は、勉強的読書をする場合、Ankiというアプリを使い、基本的に重要箇所を暗記する前提で読む。勉強的読書は、使用する本が範囲的に限られており、また、ある一定期間その本と付き合っていくのであるから、どこまでも深みにはまってしまう心配はあまりない。また、その知識はスキルとして使用されるため、読書の意義が見出しやすい。一方、娯楽的読書の範囲は限りなく、しかし、その知識はスキルとして使用されることがあまりないため、思いのままに渉猟した際には知的好奇心が満たされるばかりで、徒労感に苛まれるかもしれない。そこで、娯楽的読書を行う場合は、たとえば寝る前の1時間だけなどの時間的な制約を設ける必要がある。つまり、勉強的読書は範囲的制限を設け、娯楽的読書は時間的制限を設けるのが重要である。

 

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 でさ、勉強的読書をする場合は、暗記する前提なので本を買った方がいいと思うけど、娯楽的読書は、基本的に図書館で借りるのでいいと思うんだよね、と、自分用のメモなのでした。

逸脱

 さ~て、今日も性倒錯、性倒錯♪

 

太田尚樹「在日は笑われないけど、ゲイは笑われる」 | アデイ onilne - Part 5

 太田:(ゲイが)社会的存在になって来たからこそ起こる問題。伏見さんの言葉で僕が勉強になったことがですが、ゲイバーでも「あんた、社会では偉いかしらないけど、ちんぽをしゃぶってるから一緒じゃん」っていうノリがなくなって、ふつうの社会になってきたのだと思います。

(中略)

伏見:それはいいことでもあると思うんですけど、一般的な社会に包摂されれば、これからはハッテン場とかもこれからは許されなくなるかもしれない。二丁目的なコミュニケーションも過去の遺物になる。ゲイバーの存在価値を失ってしまうかもしれない。そうすると、「面白くなくなる」っていう面もあるんだよね。「ふつうになる」っていうのはそういうことだし、いわゆる社会の階層性がそのままLGBTにも持ち込まれるだけ。過去は、大きな差別があったからこそ階層性を意識しないで済んだのが面白かったわけですが、それを失うのを太田さんはいいことだと思いますか?

太田:僕はいいことだと思いますけどね。確かに、カルチャーとしての面白さは、今までエッチだったものがなくなるとかあるかもしれないけど、自分自身はそこが大好きだったわけではないので、とくに問題はない。

 

 冒頭の言葉は半分冗談ですが、上記の引用部分、非常に参考になるなあって思いました。ふつうになることで社会の階層性がそのまま持ち込まれるようになる。反対に、ふつうから逸脱することでその階層性を意識しないですむ。

 ホモとゲイという呼称では、ゲイの方が社会的だから、ホモを自称することは階層性から逸脱するという意味もあるのだと思う。自己高揚的にも近いけど・・・、でもちょっと違うかな? あと、ハッテン場に行くとか、アプリでやるとかも、そういう意味もあるのだと思う。

 そう思うと、ハッテン場に行ったり、アプリでやるのもよいものかも。うん、いつかやりたい。あと、これらの行為に対するハードルは、自分の中で、親密さへの恐怖の程度と相関があると感じる。親密さへの恐怖が下がれば、これらの行為に対するハードルも下がる。最近、親密さへの恐怖の程度が僕の中で下がってきているから、ハードルも下がっているのかも。以前とまったく反対のことを言っていますが(笑)

 

 ↓男性同性愛者が性的な交流を求める意味について、別の観点から述べられています。

Kyoto University Research Information Repository: 同性愛男性の心理療法について-性的な倒錯から生きづらさという視点への変換の試み-

天然の阿呆

 

ひろさちやの「阿呆」のすすめ

ひろさちやの「阿呆」のすすめ

 

 

 なんとも魅力的なタイトルの本がありましたので手を伸ばして取ってみました。すると、最後によい言葉が載っていました。

 阿呆のよいに生きるには、どんなときでも「今が人生で一番いいときだ」と思うことです。あなたが今三十八歳なら、それがあなたの人生で一番いいとき。五十九歳ならば、それがあなたの人生で一番いいときです。病気をしていようが、離婚をしようが、今が一番いいときと思う。それが阿呆として生きる奥義です。そう思って生きることが、人生を幸せにしてくれます。

 著者のひろさちやさん、以前に著書をいくつか読んだことがありますが、仏教関係の人という以外は特に詳しく存じ上げません。しかし、なるほど心に響くものがあります。

 上記の文章、どこかで目にしたことがあると思いましたら、坂口健太郎さんが雑誌のインタビューで似たようなことをおっしゃっていました。なんと彼は天然の阿呆でした。阿呆と言いましても、私は人工の阿呆になりたいのですから、敬意を表していることは言うまでもありません。この件に関連して坂口さんのことを熟慮してみますと、彼の顔がタイプだと以前に申しましたが、顔のみならず彼の阿呆さが好きなのかもしれません。具体的には彼の破顔です。すなわち、あの笑顔が非常に魅力的なのです。屈託のない笑顔です。この事実に気づくと、そういえば私が魅力的だと感じる人は、みんな笑顔が素敵で破顔してます。なんだか腑に落ちました。

 私も阿呆道の修練に励む所存であります。

小説

 人生で痛い目をみました。でもそこから学びました。痛い目をみて学んだことは自分の考えとして内在化され確かなものになりやすいです。これが体験的な学びの意義です。一方で体験を咀嚼しすぎた文字の羅列は「なるほどそうなのか」と思うだけで内在化されにくいです。すなわちいつまでたってもその考えは他人のものなのです。ある考えが腑に落ちるにはやはり自分で体験を咀嚼する必要があります。しかし人生は限られています。そこで少し体験的程度は劣りますが小説は疑似体験の手段として役に立ちます。逆説的ではありますが小説はindirectであるがゆえにdirectなのです。一見効率が良さそうに見える啓発本はdirectであるがゆえにindirectなのです。しかしながらどちらとも一長一短ではあります。ザッツワイ、小説の良さを改めて認識いたしました。この良さを敷衍いたしますと、別に小説でなくともよいのです。映画でもアニメでもゲームでもマンガでも歌でも何でもよいのです。しかしその中でも小説の良さがあります。小説は自分で想像する過程がありますからその世界に没頭しやすいです。体験度upです。また読み終えるまでに比較的長い時間かかり読むペースも自由に決められるため中断しながらちまちま読めます。一般的に長い時間をかけたほうが自分のものとして内在化しやすいと考えます。すぐに身につけられるものはすぐに抜け落ちます。長い時間をかけて身につけたものはすぐには抜け落ちません。この世の真理の1つです。これを考慮いたしますともっといえば小説を並行読みするのがよいのではないでしょうか。

 なお以下の記事を参考にいたしました。

 

ytera22.hatenablog.com

変化

 なんか、4月あたりから自分が変化してきてるなあ。もっと前から兆しはあった。

 年始あたりは、結構沈んでたなあ。今思えばだけど。当時はそこまで沈んでないと思っていたけど、振り返るとね。でも、今も、まだまだよい方向に向かっている途上だと思う。

 変化のキッカケが何なのかよくわからない。考えると、いろいろある。明確な出来事はよくわからないが、小さな出来事が循環的に積み重なっていったのカナ。

 日記としてブログを書き続ける良さは、こういうとき、ある。そのときの自分の状況をリアルタイムで、ときには感情を載せて、ある程度まとまった文章でストックしておけるのだ。自分の資料として、そのストックを利用することで、自己理解が深まり、今後の方向性を決めるのに役立つ。

 

 昨日の記事で書いた、「楽しみながら」ってメチャクチャよいなあ。マインドフルネス的でもあり、脱フュージョン的でもある。テキトーなこといっているかもしれないけど。嫌な出来事を反すう的に考えてしまったら、「楽しみながら」それを観察し、味わう。そして、笑い飛ばす。「楽しみながら」という言葉は、二元的な意味を持っているように思う。まず、初めに、それが自分にとって「楽しいかどうか」を評価する基準として機能する。この「楽しい」は、単に目先の利益だけを追求してポジティブ感情になるような「楽しい」だけを指しておらず、もっと幅広い意味を指す。そういう点で、ACTの有効性とも似てるかもしれない。次に、どんな活動に従事しようとも、「楽しみながら」するのである。この「楽しみながら」も単にポジティブ感情のことだけを指しているわけではない。これは、脱フュージョン的であり、人生のゲーム化・映画化に近い。ハラハラもするし、ドキドキもする。落ち込んだりもする。それでもそれが楽しい感じ。

 ほんと、テキトーなこと言ってんな(笑) 「楽しみながら」という言葉、暫定的に座右の銘的な、好きな言葉として意識してみよっと。誰に向けてこんなことをわざわざ書いてんだ、ってなるけど、まあ将来の自分に向けて。